トメアスー俳句会発行・花胡椒より転載


トメアスー俳句会発行・句誌 花胡椒より転載

手花火     下小薗 秋風

一九六六年七月発行―花胡椒・創刊号より転載

 炎天のガソリンポスト喘ぎおり

 青葉闇エスタッカ数える日曜日

 残業の机濡らすや風暑し

 玉の汗若さに咽ぶクアドリーリャ

 廻り来し周期の起点棚卸

  残業や疲れを癒やす夏蜜柑

 季雨去りて静かに暮れる胡椒園

 敷草の匂い籠るや胡椒園

 風呂浴びて吾子と戯むる十三夜

 点と線規格整う花胡椒

  新緑の伸びるが如き子の背丈

 早朝や吾子の求める掛毛布

 手花火に浮き彫りされる吾子の顔

 ゴム並木今朝病葉の二つ三つ

 霊二つ黙するセスナ雨季の蝶

  

        第三号     下小薗 秋風

 一九六八年一月発行―花胡椒・第三号より転載

 胡椒摘むモレナの声も跳ね返る

 郷愁や涼しき部屋に畳み欲し

 風光る今聖堂にミサの鐘

 黄塵やネッカチーフの娘が駆ける

 大虹のふもと第二の村あたり

 

 

   

 

 

 

 

 

 

ニッケイ新聞ーひとマチ点描・人生最大の出来事


ニッケイ新聞-ひとマチ点描

人生最大の出来事

2015・12・3

 

下小薗 昭仁

 「あれから27年ですか――」。

パラー州都ベレンで、2015年11月3日に行われた秋篠宮ご夫妻来伯歓迎会を前に、本紙パラー州通信員の下小薗昭仁さん(78、鹿児島県)は感慨深そうにつぶやいた。

1957年にアマゾン入植、まだ20歳だった。移民80周年(1988年)の時、まだ独身だった秋篠宮殿下ご来伯歓迎会が市内の平和劇場で行われた際、汎アマゾニア日伯協会の理事をしていた関係で、下小薗さんが司会をした。

 「あの時のことは今でもはっきり覚えています。とても緊張しました。『去る』とか『行く』という言葉は縁起が良くないと言われ、直したりしました。殿下はすぐ目の前に座っておられました。今もって人生最大の出来事の一つです」と目を細めた。

 今回のご夫妻の来伯も多くの移民、日系人の心に様々な思い出を残されたに違いない。(深)

第21回草枕俳句大会一般の部入選


第21回草枕国際俳句大会一般の部・宇多喜代子選 入選

入選句 「アマゾンの空に小粒の凧泳ぐ」秋風

 

トメアスー俳句会・7月度結果


7月度/兼題・凧・七夕・ジャスミン・ゴム紅葉・自由題・ちちろ鳴く

3点 青空に豆粒ほどの凧泳ぐ          ◎○

1点 濡れそぼつジャスミンの花清々し      ○

   混植やゴム紅葉の並木道

        七夕や紙縒りで括る小短冊

          朝まだき干場に立てばちちろ鳴く

 

トメアスー俳句会・6月度結果


6月度兼題・雨季明け、群蝶、デンデ椰子、

自由句・移民の日

(10点)アマゾンに根付く血筋や移民の日

(02点)アマゾンを埋め尽くしたりデンデ椰子

(01点)雨季明けや学童の声高らかに

(0点) 雨季明けや小窓を明けて陽を拝み

(0点) 群蝶や地面に集い羽競う

全体で13点で最高点獲得も、13人中、2位でした。久方ぶりの最高得点、やっぱり嬉しいです。七月度頑張りましょう。七月の兼題は、凧・七夕・ゴム紅葉。自由題1句だ。

秋風

 

 

 

秋風自選 ー七月の俳句ー


1,星祭りポ語で書き込む愛の詩

2,アマゾンの夜を彩る星祭り

3,短冊に願いひしめく星祭り

4,凧挙げてアマゾンの空競う子ら

5,ジャスミンの香りひそめし蕾かな

秋風自選

 

「アマゾンの歌」を歩く=(終)アマゾンの歌、その後


ニッケイ新聞 2009年8月1日付け

『アマゾンの歌』の取材のため、角田房子氏がトメアスーを訪れたのは一九六五年末。―それから四十四年。トメアスーをめぐる環境は大きく変化した。作家が感嘆した整然と植えられたピメンタのみの畑はすでにない。六〇年代の病害の蔓延でピメンタ一本だった農法の見直しが図られた。続く不作、七四年の水害で受けた大打撃をきっかけに熱帯植物などの生産が増え、現在はアグロフォレストリー(森林複合栽培)のモデル地区だ。ジュース工場で生産するアサイーやクプアスーの加工品生産でも有名となった。もちろん、山田一家も大きく変わった。物語の主人公となった義一さんは、八八年に九十歳で亡くなった。元さんは九一年、日本にデカセギに行っていた長男旭さん、現在同居する四男亘(わたる)さんの誘いで豊江さんと訪日する。二歳での渡伯以来、六十二年ぶりの里帰り。二人の姉に再会することが目的だった。「生まれたところは藪になっていました。猫の額のような土地でね。ブラジルに来て良かったと思いました」その後、旭さんの働く工場に挨拶に行ったところ、日ポ両語が堪能であることを見込まれ、そのまま妻豊江さんとその会社で働くことになる。当時デカセギブームが到来、ブラジル人労働者と会社の軋轢も多かった。「ブラジル人、日本人両方の言いたいことが分かるでしょう。辛い時もありました」。休みの時は、書道を習った。「今の日本人に感じたことは、年寄りを大事にしない、物を粗末にすることでしょうか」通訳している姿がテレビで放映され、角田氏から連絡があった。「名古屋で会う約束をしたんですが、結局会えず仕舞。でも、著作を送って頂きました。その間、農園はブラジル人労働者に任せ、電話でときおり指示していた。九九年にトメアスーに戻った。「それがねえ…ちゃんとやっていなかったんですよ。勝手な投資をしていたりして。日本人に頼むことは出来なかった。長く働いていた十一人の従業員に退職金代わりに土地を分けて与えました。今は農業やっても深みにはまるだけ。二〇〇〇年には見切りをつけ、他の土地も売りました」かつて二百五十町歩を誇った山田家の土地は現在、住宅のある周辺のみとなっている。「原始林を開拓して畑を作ったんですから…断腸の思いでした。自分を疎かにして財産をなくした。今でも胸が痛いし、恥だと思っています。子供たちは継がなかった。ピメンタ景気のいい時に生まれて甘やかしたんでしょう。親爺が草鞋で頑張って、孫が靴はいてるわけですから…」。そう声を落とした。十字路近くにある『留安山 浄土真宗トメアスー本願寺』を訪れた。トメアスーの顔役的存在で、同寺の世話役を務めていた坂口陞(のぼる)さんが〇七年に亡くなったことから、元さんが後を継いだ。この土地も山田家が寄進したものだ。月に二回、お勤めを行なうほか、葬儀なども執り行う。今年九月にある入植八十周年慰霊法要の準備も大事な仕事だ。「昨年までにトメアスーで亡くなられた方は八百二十四人です」と過去帳をめくった。一九二九年九月二十二日、トメアスーに第一歩を刻んだ百八十九人の第一回移民で現在も健在なのはわずか二人。「ここは本当にいいところ。つくづくそう思いますね」。一家で築き上げてきた〃古里〃トメアスーをこれからも見つめ続ける。

(堀江剛史記者)

 

「アマゾンの歌」を歩く=(10)農協理事長、市議も


ニッケイ新聞 2009年7月31日付けより転載

 胡椒景気を迎えたトメアスーの生活は一変した。移民の多くは家を新築、それは〃ピメンタ御殿〃と呼ばれた。いっさい装飾を省いた長方形の総二階に、学校の寄宿舎のように同じ形の窓が等間隔に並ぶ山田の家にも、彼の質実な性格が現れていた。雨季明けの五月、開拓時代の犠牲者二百七十人の供養のため、トメアスーを訪れた浄土真宗本願寺派門主・大谷光照夫妻は、山田の新築の家に一泊した。法要の席の山田は、スエノをはじめ、トメアスーで生まれ、貧困の植民地だけで短い生涯を終わったすみれ、昭の冥福を心から祈った。五四年に建設したこの家に今も山田さんは住んでいる。一階にある仏壇の上には、「見照」「至誠心」と大谷氏の揮毫による額がかかる。「門主さんが来られたときは、二階でお説教をして頂きました。その後にも年賀状などを貰い、父は『有り難い』とよく言っていました」義一は五人の子持ちだった寡婦みつよさんと再婚、その後三人の子供をもうけた。元、豊江さん夫婦も六人の子供に恵まれた。「一時はこの家に十七人が住んでいたんですよ」と笑う。この年、義一さんは二十五年ぶりに故郷広島に錦を飾る。いま彼は祖国の土を踏んだが、しかしかつて夢見たように、日本に骨を埋めるためではない。親がわりの愛を注いで育ててくれた長兄・力太郎がすでに高齢に達しているので、健在のうちにブラジルでの生活を報告しておきたい―という気持ちに押されての訪日であった。「子供の頃、置いてきた姉を連れて、東京見物などをしたそうです。ピメンタ景気で贅沢する人もいましたが、うちで言えば、父が里帰りしたこと、増産のため土地を増やしたくらい。良かったことは、弟たちがちゃんと学校に行けたことでしょうか」窮乏時代に育った長男だけが小学校卒で終わったことを、彼の成績が抜群だっただけに、山田はいつまでも残念に思っていた。しかし、学歴のない元が、独学ながら日本語、ポルトガル語の読み書きを十分こなし、思慮深い性格で周囲に認められていることが、いっそう嬉しく、頼もしくもあった。「成績優秀というのは…角田先生が飾って書かれたんでしょう。小学校もギリギリで終ったくらいですから。組合に入る時は、履歴書に書くことがなくて困りましたよ。元さんは六一年、トメアスー総合協同農業組合の理事となり、七〇年から四年間、八二年にも理事長を務めた。通信技術が発達していない当時、会長、専務、秘書はベレンに勤務した。「日曜日から金曜日まではベレン。父からは『人のために、犠牲精神を持って仕事しろ』と言われて、一生懸命やりました。ただ、組合の仕事をやると自分の営農が疎かになるんですね」元さんが理事長を務めた七、八〇年代、ピメンタの盛衰は激しく、非常に厳しい時期を過ごしたという。市会議員も六九年に一期務めた。七人の当選者のうち最高得票。教育充実に力を入れた。「自分もブラジルの小学校へ行かせてもらいましたから。中学校へ行けなかった悔しい思いをしたし、務めだと思いました。ベレンから先生を呼んだり、机と椅子を百組船に乗せ、運んできたり。だけどポリチコっていうのは、嘘をつかないといけないんですよ。それが耐えられなくてね。一期で勘弁してもらいました」

(堀江剛史記者)

 

 

 

「アマゾンの歌」を歩く=(9)“黒いダイヤ”ブーム到来


ニッケイ新聞 2009年7月29日付けより転載

 マラリアが蔓延し始めた一九三三年、南拓社員の臼井牧之助(女優小山明子の実父)は、第十三回アカラ移民を引率し、神戸から、はわい丸に乗り込んだ。船内での死亡者を火葬にするため、シンガポールで下船したおり、胡椒の苗を二十株購入する。五年経っても、永年作物を見出せない植民地で試作するつもりだった。到着後、トメアスーのアサイザール試験場にそれを植えた。その二年後の三〇年、鐘紡は経営難が続く事業の縮小を断行する。移民らの怒号のなか、当時一万円の私財を残し、南拓社長の福原八郎はトメアスーを去った。閉鎖されることとなった試験場ですくすくと育ったわずか二本のピメンタを加藤友治、斎藤円治が貰い受け、自分らの畑に植えた。地道にピメンタを育て、その数を増やし、終戦の年には八百本になっていたという。二人は苗を配り、畑の隅で育てる人も多かった。トメアスーの人々が、〃福音〃としてピメンタに注目したのは、四七年にあった組合の定期総会の席だったという。同年九月から十一月までの事業報告で今まで雑収入でしかなかったピメンタの売上高が米と野菜に次いだのである。次回の報告では、ピメンタが七倍の売り上げを記録、全員が主作作物に切り替える。ピメンタは蔓科植物で、その栽培にはまず蔓をからませる支柱が必要である。これは腐らない、固い木でなければならない。この支柱は重く、運搬が一仕事である。一台の荷馬車には十本以上は積めない。山田は一度に二台の荷馬車を引くことに決めた。これで一回に二十本を運ぶことができる。朝三時から夕方七時まで、彼は二台の荷馬車をひいて黙々と炎天下を歩き通し、遂に目標の千六百本を自分の力だけで運び終えた。この畑は元さんがいた精米小屋の近くにあった。「アマゾンの歌」で〃アカラ一番のがんばり屋〃と書かれる父義一さんを「難しい人間であることには間違いない。無口な方ですよ。でも仲人も結構したんですよ。家の中では頑固でも、外ではニコニコしてね」と評する。植民地を挙げて、胡椒栽培に取り組んだ。国内の販売拡張と輸出を見越し、五〇年にはサンパウロ出張販売所を開設。一九五二年から、ピメンタの国際価格が急騰、〃黒いダイヤ〃と呼ばれたピメンタブームが起きる。五二年にキロ当たり九十三クルゼイロだった価格は、五四年には倍となった。当時の国内消費は千二百トンと見られていたが、トメアスーの生産量は同年、八百トンを記録。当時の組合員数七十八人の総売上高は八億三千五百円に上った。五六年には輸出も開始、まさに黄金時代が訪れる。二八年の渡伯前、帝国ホテルで行なわれた壮行会で福原社長は、「植民事業を五年以内に成功させる」と株主らに語った。鐘紡の武藤山治社長はそれを制したうえで、「二十年論」をぶった。武藤の先見通りの結果となったといえるが、その恩恵に浴したのは、退耕者を見送り、マラリアと敵性国民としての扱いに耐え抜いた六十三家族のみだった。

(堀江剛史記者)

「アマゾンの歌」を歩く=(8)戦時中は日本人収容所に


ニッケイ新聞 2009年7月28日付けより転載

 一九四一年十二月、日本軍の真珠湾攻撃により、アメリカとの戦争が始まった。伝えられる各地での日本軍の華々しい戦果。マラリアや困窮生活が長く続き、行く末への果てしない不安を抱いていたトメアスーの人々は愛国心を掻き立てられ、狂喜した。精米小屋にいた元さんは、戦争当時の様子をよく覚えていない。「ですが、熱心な人がいて、日本軍がどこを攻撃している、どこの都市が陥落したという情報は常に入ってきていました」。翌年一月の国交断絶後は、ブラジル政府は日本人三人以上の集合、日本語教育などを禁止する。「確かに苛められたってことなんでしょうけど。社交家だった母がブラジル人とも仲良くしていたので見つかってどうのこうのっていうのはなかったですよ。港のブタ箱に入れられた日本人もいたそうですが」

 一九四二年八月にベレン沖でブラジル商船がドイツ軍潜水艦に撃沈(連合軍側の陰謀とする説もある)されることでトメアスーの生活は一変する。怒り狂ったベレン市民の焼き討ちに遭った多くの日本人が逃れてきた。パリンチンスなどアマゾン中流域でジュート栽培(黄麻)に関わっていた高拓生らも移送された。山田家はベレンの二家族を受け入れた。「着の身着のままでねえ。大変だったようです。高島さんと渡部さんという家族七人でした。一年くらい仕事を手伝ってもらいました。我々も助かったんですよ」スエノはつと手を伸ばして元の腰のあたりをひとつたたき、はね返ってきた固い音に、二人は顔を見合わせて笑った。元はふろしきに包んだ日本語の教科書を腰にしばりつけ、その上にシャツを着てかくしているのだった。義一さんは教育熱心だった。禁じられていた日本語教育は各家の敷地に建てられたバラックで行なわれた。精米所で働いていた元さんにも、日本語を教えた。彼は夜の時間を割いて、元に日本の文字を教え、一緒に歴史の本を読んだ。日本語を理解することによって、元は日本人の精神を持つようになる―「戦前の子供はみな読み書きできましたよ。あの頃は一日十二時間労働。それでも『最低三十分は勉強しろ』って。マラリア蚊がいるから、蚊帳の中での勉強だけど、カンテラでやるから蚊帳が真っ黒になってねえ。『二宮尊徳を見習わんといかん』ともよく言われました」終戦、そしてスエノさんの突然すぎる死――。日本の敗戦を契機として、アカラの人々の多くは永住を決意した。元は精米所に戻り、山田は未明から耕地へ出て、山田一家はスエノの抜けた場所に深い穴のような暗さを残しながら、平常の生活に戻った。何事があろうとも、まず働かなければならない。「元々、永住決意で来たと思います。そのために婿をもらうよう姉を広島に置いてきたんだから。父に直接聞いたことはありませんが」日本軍の侵攻で戦火が広がった東南アジアで胡椒栽培が下火になり、日本の降伏とともに独立したインドネシア(当時世界第一の胡椒生産国)が食料自給政策のため、胡椒を米に転作、胡椒の国際相場が急騰する。これが後に、トメアスーに巨万の富をもたらす下地となっていく。

(堀江剛史記者)

 

 

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アマゾンの日々

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